Photo : Osamu Matsuo
Text & Edit : Issey Enomoto

HYPER SOLE by Kenta Toda

複雑化したスニーカーカルチャーを再解釈し、
その在り方を問い直す。

本誌のライターを務めながらアーティストとしても活動する戸田健太が、初の個展「HYPER SOLE」を2023年末に開催。彼が創作を通して表現したいものとはなにか。会場で展示された作品の一部を紹介しよう。

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rain shoes / 2023

AF1にビニール袋を被せた上からスウッシュを縫い付けて制作。雨天時にビニール袋を被せて着用することでスニーカーの汚れを防ぐ行為に言及し、スニーカーに対して抱く過剰なまでの状態維持欲を浮き彫りにする。
w230×h320×d290mm

mix 02 / 2023

2種類の異なるスニーカーを組み合わせて制作。ブランドの異種混合というタブーをアートとして成立させることを試みた作品。
w220×h270×d300mm

alter sole / 2023

ソールの代わりにキャンバスを使ったこの作品は、2枚で1足のスニーカーであると同時に、スニーカーで描いたペインティングでもある。この二面性がスニーカーと絵画の境界線をほぐすことで、表現フレームとしてのスニーカーのもつ拡張性を提示。
w510×h660×d120mm

exa / 2023

バックパックを彷彿とさせる巨大なシルエットの本作は、スニーカーとして歩行するための機能と、明らかにその行為を拒絶させる暴力性を兼ね備える。この矛盾のなかに、機能性を度外視し、過度に巨大化する昨今のスニーカーに人間が見出した拡張の欲望が潜む。
w400×h240×d380mm

real fake / 2021

既製品のAJ1をパターンレベルまで分解し、それらを別の素材に型取りし直して再構築。世界に一足のAJ1であると同時にブートレグ(フェイク)でもある二面性により、スニーカーに抱く真偽の価値について考えることを促す。
w220×h270×d300mm

new sculpture / 2023

3年間かけて着用したAF1にサインを施して制作。履きジワなどに価値を見出すヴィンテージの美意識を再解釈し、履き潰したスニーカーを「足」と「道路」を使って作成する彫刻として定義。
w230×h150×d300mm

big strap 02 / 2022

登山用のバックパックを分解してスニーカーとして再構築。アップサイクリングによってスニーカーのシルエットへと強引に変形させることで、その物体が新たに獲得するスニーカーとしての記号性を浮かび上がらせる。
w300×h220×d340mm

fiction 02 / 2021

家具に使われていた生地の端材から制作。この作品自体がそうでないように、廃棄物を活用して作られたスニーカー自体が環境問題に対する直接的な解にはなりえないことを暗示する。
w240×h230×d330mm

 

Interview with Kenta Toda
戸田健太インタビュー

戸田健太
1996年生まれ。独学でスニーカーの製作技術を学び、シューズメイカーとして東京を拠点に活動。スニーカーの持つ記号性や身体性、意匠に強い関心をもち、それらを題材にしたアート作品の制作、発表を続ける。並行して本誌のライターとしても活動。大学の卒論のテーマは「スニーカーカルチャー論」(本誌Vol.32に全文掲載)。

Instagram : @todahan

「コンセプチュアルな表現形態を通して、
アートの文脈へとスニーカーを開放したい」

–––戸田さんがスニーカーを題材にした作品をつくり始めた理由やきっかけを教えてください。
最初のきっかけは、ヴァージル·アブロー×ナイキのTHE TENに触発されたこと。スニーカーの構造が露呈したような未完成のデザインを見て、自分でもつくれるのではと思い、手縫いでつくってみたんです。

その後、『SHOES MASTER』(Vol.36)のカスタムスニーカー特集の取材でスニーカーのカスタマイザーたちと出会い、自分もやってみようと考え、大きなミシンを購入。まずは簡易的なカスタムからスタートしました。

手持ちのスニーカーをパターンレベルまで分解し、別の素材でつくり直す、みたいなこともやっていましたが、ただそれだけだと既存のデザインの焼き増しでしかない。何か違うことはできないか、自分だからこそできることはなにかと模索するなかで、スニーカーを表現形態のひとつと捉え、作品を通してそのあり方を問い直していくことこそ、自分が本当にやりたいことだと考えるようになりました。

――戸田さんの創作活動の背景には、どんな思いがありますか?
学生時代からずっとスニーカーが好きでしたが、あるときから「ハイプ至上主義」みたいな状況に疑問を感じるようになって。また、同時期にカスタムを始めて、あらためて気づいたのは、ぼくらが「スニーカーカルチャー」と呼んでいるものは大企業のマーケティングの産物に過ぎないということ。ユーザーレベルでどんなに盛り上がろうが、ぼくたちに許されているのは「消費」しかない。絵画、音楽、映像、文学など、あらゆる文化は、ただ作り手の作品を享受するだけでなく、それらを引用し、オリジナルを創作することができますよね。だからこそ、文化として成熟していくわけです。でも、スニーカーにおいては消費することしかできない。その現実に絶望を感じますし、カスタマイザーによる二次創作に対して権利の侵害やブートレグとして一口に片付けてしまうことに抵抗感があります。

そんなぼくのなかで、スニーカーに対しての気持ちは「愛情」と「嫌悪」が同居しています。その両方の気持ちが膨らんでいくと、人は突き動かされるわけで。ぼくの好きなスニーカーが、このままではつまらない方向に向かってしまうではないか。もっと違ったあり方があっていいのではないか。そんな思いがぼくの創作活動の根底にあります。

――個展「HYPER SOLE」について聞かせてください。作品を通して伝えたいこととは?
ぼくがスニーカーの創作を通じてやりたいのは、スニーカーのあり方を追求する表現を「HYPER SOLE」という名の芸術運動として文脈化すること。

歴史をさかのぼると、スニーカーはスポーツシューズから始まりました。いわば「機能フレーム」です。それがマイケル·ジョーダン、カニエ·ウェスト、ヴァージル·アブローらによって「意味フレーム」へと転換しました。誰が履いたか、誰がデザインしたかが意味を持つようになったわけです。その次の流れとしてぼくがつくっていきたいのが「表現フレーム」です。

スニーカーカルチャーとアートシーンは構造的に類似性があるとぼくは考えていて。既存のスニーカーカルチャーの文脈を引用し、ときにはそこから逸脱したコンセプチュアルな表現を通して、ビジネスから限りなく遠いところであらゆる表現が許されるアートの文脈へとスニーカーを開放したい。そう考えています。

※本記事は、『SHOES MASTER』Vol.41(2024年3月29日発行)の特集記事を再編集したものです。

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